8/10(土) 日記
今読んでいる本:「罪と罰」、「働くということ 「能力主義」を超えて」、「人生の土台となる読書」
「どこでもいいからどこかへ行きたい」と「反貧困」をこの前読み終わった。
夏休み初日。昨日から疲れてイライラしてたのだけど、掃除機をかけて、食べたいものを自分で作って食べたら気分が良くなった。ウーバーでガパオライスを注文しようかと思ったけど自分で作ったら、作る過程がセラピューティックだし、できたものもちゃんとおいしくて満腹になり、明日の食べる分まで残ったので満足感がすごくて、作ってよかった。大抵気分が良くないときは、寒いか暑いか、お腹空いたか眠いか、スマホ・ネットの見すぎで頭がパンクしているか、のどれかだと思うから一つずつ潰していけば良くなっていく。この前は帰ってきて暑すぎて気持ちが本当に無理になってしまい、帰った瞬間にクーラーをガンガンに入れて、ソファに横たわり、冷えてくるまで天井を見つめていたら、機嫌が直った。人間そんなものだと思う方が楽でいいな。
自分を急かさないことも大事だと気づいた。例えば料理するときってどうしても時短を意識して、炒め始めながら、その合間に横で次に投入する調味料の配合をしたり、次に投入する具材を切ったりと、ものすごい手際が求められる方法でプロセスを回しちゃうことがあるけど、それの反対で余裕を持ってプロセスを回せるように事前に準備を固めてから行うようにすると当たり前なんだが楽だし心も落ち着く。炒めることだけに集中できるとフライパンの中の具材を見つめているだけでなんだか楽しい。作り方一つで体験が全然別物になるなあと思った。
昨日は会社でみんなでお昼を食べながら、明日からの夏休みをどう過ごすかという話題になった。みんな休み期間をフルに活用して楽しそうな用事を語っていた。私はというと、昨日の夜は仕事が終わってからご飯を作り、本を2時間くらい読んでお風呂に入って寝た。今日は朝から家事をして、昨日の残り物のガパオライスを食べてから近所のいつものカフェにきた。ゆっくりカフェに行く日があるだけで幸せだなあと思う。社会人になってから、大型連休の少し前に旅行を計画するものの、結局いかない、ということをよく繰り返している気がする。最近、自分は旅行があまり好きではないのかもしれないと気づいた。だいたい旅行に行けるような日程はみんなが揃って休みのところだから前々から計画して予約して手配しなければいけないし、あらゆる宿やレストランのオプションから良い選択をしないといけないのも面倒で時間がかかるし、自分が寝慣れた布団や枕じゃないからよく眠れないこともあるし、あまり体力がないから旅行で疲れると休みの意味がなくなる気がして来る。一番大きいのは、それなりにお金がかかるのだから、それに見合う価値がないといけないと思い込み、自分に対して謎のプレッシャーをかけてしまい、負担になる。そもそもの自分の完璧主義的で要求水準が高い性格が原因なのだが、そこまで大変で幸せにならないのなら、旅行なんていかなくていいのではないかとなる。去年、新婚旅行でイタリアに12日間行き、これはもう一大プロジェクトとして自分が満足できるようにお金も時間もかけたのだが、これは本当に楽しくて幸せで行ってよかった。こういう旅行を3~5年に一度やるのが一番いいのかもしれない。あとは気軽な貧乏国内旅行に振り切るのもいいかもしれないが、ある程度清潔でリラックス感も求めてしまうのでそれを楽しめる境地にいける気もあまりしない。そんな中、いつも大型連休になるとSNSで知人の旅行風景がたくさん流れてきて、みんなすごいなあと思い、自分はダラダラと東京に居残っている。それはそれでいいんだ。夏休み最高!
8/4(日) 映画日記「クローズ・アップ」(1990)

アッバス・キアロスタミ監督「クローズ・アップ」(1990)。とんでもない映画だった。「こんなことが映画で実現されてしまうとは」と、自分の中での映画の概念が揺るがされる映画があるのだが、これはまさにそれだった。
見終わってから、これは奇跡のようなドキュメンタリーでもあり、キアロスタミの「大人は判ってくれない」であり、何が何だかわからないものでもありと、いろんなことが頭をよぎって、頭の中がぐわんぐわんする。
自分が見たものを信じられずに何度も見てしまう。イラン社会をすり抜けつつ恩寵のような偶然をすべてものにしてしまう、もはや悪魔的なまでの狡猾さと執念。なぜこの世にこんな映画が存在するのかまったくわからないが、目の前にある以上は信じざるを得ない。キアロスタミによる映画の存在証明。
ー濱口竜介
7/31(水) 読書日記 「何もしない」
今読んでいる本:「罪と罰」、「何もしない」、「どこでもいいからどこかへ行きたい」
ジェニー・オデル「何もしない」を途中挫折した。神楽坂のかもめブックスで出会い、斬新なタイトルとシンプルな表紙に惹かれて買ったのだが、まともに読めたのが「はじめに」「第一章 「何もしない」ということ」「おわりに」くらいで、間の議論が難しすぎて読めなかった。ただ、問題提起自体に共感したので、読めた部分だけでも面白かった。
テクノロジーの新自由主義的な明白な運命とトランプカルチャーの両方に共通する傾向は、陰影があり、詩的で、はっきりとしないものごとに耐性がないということ。「なんでもないもの」が許容できないのは、それらを利用したり占有したりすることができず、目に見える成果も出ないからだ。
われわれの時代が物質主義、実利主義に向かいつつある状況を目の当たりにすると…精神の喜びを追求する人たちが堂々と陽のもとに居場所を求める権利を失う社会が到来するという考えが突飛なものではなくなる。(ジョルジョ・デ・キリコ)
私の議論の原動力となっているのは単純な拒絶だ。それは、自分にとっての「今・ここ」や周囲にいる人たちだけではなんとなく物足りないと考えることの拒絶だ。フェイスブックやインスタグラムのようなプラットフォームは、私たちが自然に抱く他人への興味や、年齢に関係なくコミュニティを求める気持ちにもつけこむダムのような存在で、人間のもっとも根元的な欲求を乗っ取って欲求不満にさせ、そこから利益を得ている。
…なんでもないことに時間を費やすのは正当化できなくなり、時間はすべて経済資源になる。…非商業的空間が失われていくのと同じように、自分の時間と行動がすべて商業的なものになりうると私たちは気づいている。
資本主義社会ではお金だけじゃなくて、時間・アテンションすらも吸い取ろうとしてくることは誰しもが身を以て感じてると思う。目に映るすべてのものを広告にしてこようとする。なんて少しでもこのことに意識的になるだけで、自分にとっての実感あるしあわせを見つけて、大事にできる気がする。
7/31(水) 読書日記 「おひとりさまの老後」
今読んでいる本:「罪と罰」、「おひとりさまの老後」、「何もしない」
上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」を読み終わった。きっかけはphaさんのブログだった気がして探してみたが、記事がなかったので他の誰かのおすすめだと思う。数年前に本屋さんで山積みになっていたことを覚えている。最初は上野千鶴子が大衆向けに書いたテクニック本だと思い軽い気持ちで読んでいたのだが、どっこいなんて真摯で熱い本なのだろうか。最後に角田光代さんの解説を読み、体の隅々まで温まりきった。
この本のメッセージは、女一人で老後も楽しく生きていけるということ。本当にシンプルなメッセージだけど、それは要するに家父長制の幻想のぶち壊しでもあり、みんなが恐れている未知なる敵、つまり老い、が敵ではないことの暴き。フェミニズムが根底にどっしりと根を張っている本書が大衆向けの面をしてベストセラーになるなんてかっこよすぎて敬服モノだ。
三十代の私の「ひとりで生きる」は主義主張だった。でもそれを通すには、その主義主張を強化することでも、それと異なる主義主張の持ち主への攻撃をバージョンアップすることでもなかった。どのようにすればそれが可能か、かつ、自分にとって快適なものになるか、具体的に調べ、知ることだった。あのころの私は、結婚こそ女のしあわせと迫る母をいかに黙らせるか、子どもを産むべきよと平気で言う同世代の女友だちをいかに論破するか、躍起になっていたけれど、価値観の違う人とそれをすりあわせようとする必要などなかったのだ。私の人生はだれと比較されるものでもない、私のものなのだから。本書にはそんなことにも、気づかせてくれた。(解説より)
角田光代さんが書いた通りで、自分の理想の未来を思い描き、計画に落とし込んで、実行するのみでよいのだというシンプルな事実に、励まされる。有難い。
友達が茗荷をおすそ分けしてくれた。甘酢漬けにすると、漬けはじめは茶色なのにピンクになった。こんなことが楽しい。


7/27(土) 読書日記 「罪と罰」
近藤康太郎さんの「百冊で耕す」を読んでから、本の読み方が大きく変わり、完璧ではないが、ほとんど師匠が提示する通りの読み方をしている。特に三冊同時並行で読むことを取り入れたら、すごく読書が捗るようになった。一冊だけをずっと読んでいると途中で読み飽きたら読書以外のことをし始めちゃうから、とっかえひっかえできる状態を作ると必然的に読む時間が増える。一冊につき15分ずつ、順番に読んでいくのも、時間のメリハリが効いてすごくいい。無理やり15分で区切ると、次にその本を読む順番がくるのが楽しみになる。
今読んでいるのは、「罪と罰」、「何もしない」、「おひとりさまの老後」の三冊。
「罪と罰」はおそらく高校生くらいの時から本棚に鎮座しており、大学生の時に一度挑戦したものの、上巻の2/3くらいの時点での栞が当時の挫折を物語っていた。この半年くらいずっと再チャレンジしたい気持ちがあって、読み始めた。挫折が怖かったから、まず100分de名著のテキスト「集中講義 ドストエフスキー 五大長編を解読する」を読んだ。100分de名著は名著を解説してくれるNHKの番組で、番組に即したテキストも安く売ってくれており、古典を読むにあたり、大変助かっている。
ドキドキしながら「罪と罰」の原本を読み始めたのだが、思いの外するすると読めていて、感動した。シンプルに面白い。昔は読めなかった本を読めるようになっていて、なんだか本を読み続けてきたことのご褒美のような気持ちになった。それから、近藤さんが「名作には空気感がある」みたいなことを言っていたが、それがすごくわかる。本が醸し出す空気感って、自然に対する畏怖みたいなものに類すると思う。なんだか圧倒される。
今、第二部あたりなのだが、ここまでで印象に残ったシーンが二つ。一つ目は、ラスコリー二コフが道端の酔っ払った少女を助けるシーン。正義感を振りかざしていたのに途中からどうでもよくなって、どうにでもなれ!みたいになり、ずっと一緒にいた警察官がその気の変わりように困惑するところ。なんか本当に笑ってしまった。でも人の気分ってそんなものだよなという感じが妙にリアル。
もう一つは、民衆が馬を殺す悪夢のシーン。私は悪夢を小さい頃からよく見ていたから、この尺の長さと説明の粒度感に共感した。
病的な状態で見る夢は、間々、以上に鮮明で、気味わるいほど現実に似通っていることがある。時によると、奇怪な光景が描き出されるが、その夢ものがたりの舞台装置や筋のはこびが、あまりにも正確で、しかもそのデテールがびっくりするほど細密で、唐突だが、芸術的に絵全体が実にみごとに調和している。
このシーンがおばあさんを殺す犯行前に挟まれるのは面白い。ところで、馬というのはすごくシンボリックな動物だなと思った。馬が出てくる映画なんかも印象深いものが多い。最近見たイエジー・スコリモフスキの「EO」なんか、強烈だった。それから、ジャジャンクーの「罪の手ざわり」でも、人が資本のために動物や自然を破壊する様をストレートに馬への体罰で表現していたことも思い出す。労働者が資本側を殺しまくるシーンで、馬を解き放っていた。


今日の夕飯はゴーヤをジリジリ焼いた。